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Webマーケティング

ブログ運営者プロフィール

氏  名:井上ユキコ
生年月日:1970年2月5日生
出 生 地 :愛知県

幼少~中学校時代:運命的な出会いは母が大好きな映画から

私は、愛知県のごく一般的な家庭に生まれました。

技術者でクルマが大好きな父親と料理が得意な母親。そして二人の弟。

自然に囲まれた静かな住宅地で育ちました。

弟たちを引き連れて山に登ったり、田んぼでザリガニをとったりして遊ぶ毎日。

本を読むことが大好きで、お小遣いを握りしめて本屋に行くのが毎月の楽しみでした。

逆に球技は大の苦手で、ドッジボールではボールが怖くて逃げ回ってばかり。

残念なことに逃げ足だけは早かったので、いつも最後の一人になってしまう要領が悪い子どもでした。

そんな私には、本以外にひそかな楽しみがありました。

弟たちが寝た後に、母とこっそり見るテレビです。

いつもは長女だからと我慢することが多かった私ですが、その時間だけは母を独り占めできる幸せなひと時。

運命の出会いは、そんなひと時にやってきました。

映画『サウンドオブミュージック』です。

画面いっぱいに広がる美しい風景。

うつくしいメロディーにのせて歌い上げられる美しい響き。

「このキレイな言葉を理解できるようになりたい!」

それが私にとって、はじめて外の世界との出会いでした。

   その映画をきっかけに、英語を話せるようになるぞ
   英語を使って人の役に立つぞ
   と心に誓ったのでした。

しかし「中学生になると英語を勉強できる!」と、楽しみだった英語の授業は、あっという間に地獄の時間になってしまったんです。

英語の教科書を受け取った日は、ワクワクして早く英語の授業を受けたくて、
やる気にあふれた私は、辞書を片手に予習をしました。

中学1年生の1ページ目はごく簡単な自己紹介。1時間もしないうちに予習が終わり、英語を勉強できる喜びでいっぱい。ワクワクしながら迎えた翌日の英語の授業。

「この部分を訳せる人!」の先生の問いかけに
「ハイ!」「ハイ!」「ハイ!」「ハイ!」「ハイ!」

ほぼクラス全員が手を挙げました。

「〇〇さん」と先生。

指名されなかった私はガッカリしてうつむいたのですが、次の瞬間、衝撃が走りました。

同級生「こんにちは。僕の名前はマイクです。」
     (え?マイクって誰?)

同級生「こんにちは。僕の名前はケンです。はじめましてマイク。」
     (マイクって誰?)

同級生「はじめまして、ケン」
先生「はい。ありがとう。これはケンとマイクの会話ですね。」

なんと。私のノートには「ケン」は居ましたが、「マイク」の代わりにいたのは「ミケ」でした。

わたしは”Mike”を「ミケ」と訳していたのです。

「名前も訳せないなんて、英語なんて無理じゃん」
「もう英語なんて勉強したくない…」
「早く結婚して、幼稚園の時から夢だったお母さんになろう」

本気で落ち込んだ中1の春でした。

絶望のどん底に突き落とされた気分で、そのまま成績もずるずると落ち続けて、気がつけばあんなに勉強するのが楽しみだった英語は、中1の夏には30点台と低迷するありさま。

当然、夏休みの宿題も、8月31日に慌てて適当に終わらせる
そんな生活を続けていたんです。

しかし中1の冬に「このままじゃイヤだ。やっぱり英語を話せるようになりたい」

そう思った私は、母に頼み込んで家庭教師をつけてもらうことにしました。
(近所に塾がなかったのです)

英語を話せるようになりたい、と小学生の時から思っていたこともあり、また家庭教師の指導が私にピッタリはまったらしく成績が伸びて上の下くらいまでになりました。

自信がつき、色々なことに挑戦するようになった私は、近所にできた英会話学校に通わせてほしいと両親に交渉して、英会話学校に通い始めます。

はじめて目にする外国人の先生たちの前で、下手な英語を話すのが苦痛な初日でしたが、英語で気持ちを伝えられることが増えるのが嬉しくて、だんだん勉強が楽しくなりました。

高校生~大学生時代:人生を謳歌

高校に入って外国の映画にのめりこんだのは、英語を理解できるプロセスが楽しかったから。

その頃は学割がホントに安かったので、週に1回は映画を見に行って、字幕を見ながら英語のリスニング練習をしていました。

そして高校生の私はジャンクな食べ物が大好き!

特に健康と食べ物に厳しかった母は「コカ・コーラなんて人間が飲むものじゃない!」と言って、決して飲ませてくれませんでした。

そんなわけでアルバイトをして自由に使えるお金が手に入った高校生の私は、映画館に行くたびに、コカ・コーラとポップコーンを買っていました。

そんなある日「世の中にはサブリミナル効果という恐ろしい技法があるらしい」という噂が流れてきました。

噂によるとサブリミナルとは、映画のコマとコマの間に、売りたい商品の画像を入れ込むこと。観客は商品を見たことを自覚していないのに、その商品が欲しくなってしまうということだったのです。

意識させないで、人の心に入り込んでしまう技法があるなんて
世の中には、なんて面白いことがあるんだろう
そんな面白いことを考え付く人って、どんな人なんだろう

毎回コカ・コーラとポップコーンを買っている私は、まんまと騙されている気持ちになったんです。
と同時にその技法をもっと知りたい、私も使えるようになりたい、と思うようになりました。

ただ残念なことに、サブリミナル効果は心理学だ、という認識だったため、当時の私は心理学の文献を読み始めたのでした。

とはいえ心理学はとても奥が深く、興味深い学問です。
わたしは心理学のとりこになってしまいました。

当時は、何でも心理学につなげて考えていました。

一方の学校生活といえば、高校ではの部活動はシーズン制だったので夏はバスケットボール、冬はソフトボールに参加。
しかし運動は相変わらず苦手なまま。チームの足を引っ張ったことしか覚えていません。

自由な校風だったので、とにかく毎日が楽しくて仕方がありませんでした。

いざ大学へ進学しようとするとき、本当は心理学やアートを勉強したかったのですが、当時の我が家は「そんな不確実なものを勉強するために大学へは行かせられない」というスタンスでした。

かといってビジネス系の学部はなんだか小難しそうだったし、なによりビジネスというものは「会社に入って身につくものだ」という考え方だったので、ビジネス系の学部も論外。

仕方がなく東京の外国語がある大学を希望するようになりました。

しかし父親の猛反対で、東京の第一志望校も、第二志望校も受験させてもらえず、地元の大学の外国語学部に進学することになりました。

その反動か、大学では自動車部に入部してクルマ三昧の日々。

中でもラリーやダートトライアルという競技にハマり、練習が大好きだったので自分の車が欲しいと思うようになりました。

そして、当時人気のハチロクを中古で手に入れて、エンジンを保護するアンダーガードを入れたり、ラリータイヤをつけたりして喜んでました。

練習してちょっとうまく車を操れるようになったら、腕試しをしたくなるものです。

わたしも大会に出ることにしました。

当時の学生主催の大会には、大企業からのサポートが手厚くて優勝者にはタイヤ1セットが贈られることが、当たり前のように行われていたんです。

企業が学生にプレゼントするなんて、なんで?しかもタイヤを4本も?
当時の私には、企業の意図が分からず不思議でした。

そんな私に経営学科の先輩が「社会には、そういう裏の思惑があるってことだよ」
と教えてくれた時の言葉を、今でも覚えています。

これが私がマーケティングを体感した初めてのできごとでした。

一方、大会では優勝候補と言われながら、いま一歩成績を出し切れなかった私です。
しかし全国大会にも行けたし、充実した大学生活を過ごせたのは幸せでした。

就職活動は順調!
就職氷河期が始まっていましたが、まだまだ売り手市場だったので、受けた会社からはすべて内定をいただくことができました。

男性と同じ仕事をして、対等にやりあって仕事がデキるという環境と、初任給がいいという理由で、教員になることを選びました。

新社会人:つかの間の幸せと大きな後悔

周りが入社式や内定旅行に参加する中、学校から何の連絡もないことに焦りを感じた3月は、教科書ももらわずそのまま過ぎ、なんの準備もしないまま、4月1日から「先生」と呼ばれる立場に。

周りの友人は、内定をいただいた会社から色々な資料を貰っていたのに、私が勤めるはずの学校からは何もいただけないと知ったときに、一般企業と学校の意識の違い感じて、少し怖いと思いました。

「こうやって世の中の動きから取り残されていくんだろうか」

4月になって「教員」になりましたが、もともと内気だったので、40人の生徒たちの前で話をするのは苦痛で仕方がありませんでした。

しかし生徒たちはかわいいし、大好きな英語を教えてお給料をいただけるなんて最高!と感じていました。

おまけに修学旅行は海外が主流の時期。

英語科に所属していた私は、オーストラリア、ニュージーランド、そして中国にも引率で行くことに。
異文化交流の準備も楽しくて、毎日やりがいがありました。


もちろん部活動の顧問の仕事もあり、当然のように週末も学校へ。

それでも新設学科の責任者に抜擢されたり、外部との折衝を任せていただいたり、自分の仕事が評価されていると感じて、充実した日々でした。

なにより旅行会社さんや、企画会社さんの方々と色々な話ができて、営業さんの苦労話やお手柄をとった話など、どれもとても興味深い上に、生徒に伝えて職業選択の参考にしてもらえる。
何もかもがかみ合っていて、毎日の仕事が楽しくて仕方がありませんでした。

その頃は「消費者が欲しいものを提供してくれるのが企業」だという認識で、「営業さんって、人から感謝されてお金を稼ぐことができるいいお仕事」で憧れていたんです。

本当に楽しそうに仕事をしている、営業の方々がまぶしく見えました。

一方の私は、色々なことに挑戦する機会が増えてきました。
ただし、評価されればされるほど仕事は増えるばかり。

教員だから残業代も出ない。週末も仕事。

苦しくなって「結婚して子どもができて産休に入ったら、仕事を休むことができる」なんて真剣に考えるようになっていました。

23歳~33歳:そして

幼稚園のころの夢は「お母さんになること」だった私はいつも「結婚して子どもが欲しい」と言っていました。

でも仕事をしながら結局そのまま10年が経ってしまいました。

10年間、週末もあまり休まず働き続ければ体にもガタがきます。

そのうち何をしても動悸がするように。

脚立に載って、お鍋を取り出すと「ドクンドクンドクン」
台所に立って調理していると「ドクンドクンドクン」

なんか変だと病院を受診すると「先天性のWPW症候群」と診断されニトロを処方されました。

自分がニトロをもつようになるなんて、考えたこともなかったので、ビックリです。

体が悲鳴を上げている。そう痛感した32歳の夏でした。

34歳~42歳:再出発

そのまま働きつづけることができましたが、ココロもからだも、もうボロボロ。

何もかもが嫌になって、実家に立ち寄ったときに迎えてくれたのは、あの頃のハチロクでした。

「大学時代に果たせなかったトップを獲る夢を果たしたい。」

30代半ばで、そんな馬鹿なことを考えてしまいました。

それからは、当時乗っていたS13シルビアをチューニングして、週末の空き時間を見つけてはサーキットに通い、猛練習を重ねる日々。

クルマをチューニングして競技に出るなんて、出費がかさみます。

それでも頑張った甲斐があって 少しずつ成績を出せるようになってきました。

そんな時に、生徒のお父さんから声をかけられました。
「先生からお声掛けをいただけるなら、タイヤ出しますよ」

社交辞令だったのでしょうが、教員の私には驚きでした。
「なんでタダでタイヤを貰えるの?!」

「サブリミナル効果みたいなもの?ただより高い物はない、だよね」知識がない私には「なんで?」という疑問しか浮かびません。
一方で、そんな風に物品をタダで提供する企業が、何を考えているのか知りたい、と思うようになりました。

その頃から、経営に関する本を見つけては読むようになりました。

42歳~52歳:ひとときの休憩そして…老い

経営の知識を得ても、どこで使えるわけでもありません。

ただの娯楽として、知識を吸収しているだけの日々が続きました。

そのうち職場でも家庭でも、なんだか歯車がかみ合わない。なにかヘン。と違和感を覚えることが多くなり、そんな状態で数年間、仕事を続けていました。

しかし頑張っていれば、いいことは起こるものです。転機は国際交流事業。
事前準備や交流プログラムの企画運営は得意です。

相手校のニーズを聞き取り、プラスアルファで提案することで、相手校からの評価は高く、多い時には1年間に、2~3件の国際交流を担当することもありました。

それからは、歯車が合わない、と感じていたことが嘘のように、何もかもがうまく回り始めました。

手がける国際交流事業はすべて大成功。私の評価も上がりました。

色々な人脈もでき、色々な方に助けていただきながら、結果を出すことができました。

旅行会社の担当者さんたちとのやり取りが始まり、その頃の営業の動向なども教えていただくことがありましたが、そのお話の面白いことといったらありません。

若いころに感じていた営業さんへのあこがれが、また蘇ってきました。

その頃に「マーケティング」という言葉を知り、心理学と同じくらい、マーケティングに興味をもつように
マーケティングの本もたくさん読みました。

同じころ、生徒から相談を受けました。
「先生。ボクお金持ちになりたいんだ。何をしたらお金持ちになれる?」

彼の家庭は豊かとはいえない家庭でした。
彼は母親に恩返しをしたいと思っていたんです。
そのためにお金持ちになるんだと一生懸命話してくれました。

真剣なその子のまなざしを真っ正面から受け止めながら、
わたしには答えてあげられる材料がなに一つありませんでした。

「お金持ちになる方法…
そんなのあったら、私が教えてもらいたいよ。
いまはコツコツ勉強して、将来の選択肢を増やしておきなさい」

そんな、つまらない答えを返すことしかできなかった自分が許せなかった。
教育って何だろう。

その時に、将来の夢を見せてあげられない自分の無力さは罪だ。許せないと思いました。

月日が経ち、何も伝えてあげられないまま年度が替わり、何もできないまま、
彼が卒業していくのを見送ることしかできずにいる自分が情けなかった。
彼は母親に、贈りたかったものを贈ることができたのでしょうか。
いまでも、無力だったあの日の自分が、許せません。 

教員は、生徒により良い生き方の、多様な選択肢を見せられるべきではないのか。
そんな想いが膨らんでいきました。

そのうち私は、大きなプロジェクトを任せていただくようになっていました。
幸いにも色々な外部団体に助けていただきながら、成果を出すことができたんです。

そこでもマーケティングに触れる機会がありました。

入札や打ち合わせの場で、色々な企業の担当者さんと、お話をすることが増えたんです。

その頃になると、少し知恵もついてきた私は、担当さんにいろいろなお話を伺うたびに、少しずつマーケティングという得体のしれないものの姿が、少し見えてきたような気分になってきていきました

そんな順風満帆な毎日でしたが、気になることが一点。
両親の老いです。

遠く離れた場所に住んでいた両親は、コロナ禍で会えなくなっている間に、とても弱っていたんです。

ある時、母が私を訪ねてきました。

駅まで迎えに行きましたが、いつまでたっても母の姿が見えません。

どうしたんだろうと思った瞬間 「元気だった?」と聞きなれた母の声が、目のまえから聞こえたんです。

目の前には、腰が曲がった白髪のおばあさん・・・
知らない人だと思っていたおばあさんは私の母親でした。

「目の前のチャンス」と「歳を重ねていく両親」の間で、私の心は迷いでいっぱいになりました。

そんな私の心を見透かすように、母親は「あなたが頑張っている姿が私たちの誇りだから」と言ってくれたんです。
嬉しいと感じる前に、なにもできないことが悲しかった。

結局、私は職場に別れを告げて、両親と残された日々を過ごすことに決めました。
退職金を受け取り、転職先を探す日々が始まりました。

50代で新しい道を進むことにしたんです。

成らぬは人の為さぬなりけり

母が訪ねてきてしばらく経ったある日。
「〇〇さんが亡くなった」と知らせが入りました。

突然入ったその知らせは、誰にとってもまさに青天の霹靂(へきれき)。

仕事でも成果を出し、家庭も順風だったはずのその人は、いつのまにか休職していました。

職場は騒然。
ずっと御病気で、今の職場に異動してからは、一度も出勤していなかったんだって。
いつからそんな状態だったんだろうね。
そこまで追い詰められていらっしゃったなんて、知らなかった。
本当に気の毒だ。

職場のだれもが、ショックを隠し切れない様子でした。

けれど翌日。
誰もが何事もなかったように仕事をしている。
当たり前のことだけれど、当たり前なんだけれど、当然、そうでなくてはいけないけれど。

ならば、私が今ここで我慢して働く必要はないのかもしれない。
定年退職も5年先延ばしになったいま、退職した後に親孝行しようにも、そんな未来は永遠に来ないんだろう。
退職して、自宅で仕事をしながら、両親と過ごす時間を作ろう。

ほかのだれかにバトンタッチして、私は先輩からのバトンを受け取ろう。

でもどうやって?

わたしは転職サイトに登録して、転職活動を始めました。

当時はコロナ禍もあり、リモートワークの求人が多くありました。

実際に登録した転職サイトから、何通もスカウトが届きました。
「これはいけるかもしれない」

そこで、さらにスキルを身につけ、即戦力として重宝される人材になるために、1年間は仕事をしながら、プログラミングとAI構築についても学ぶこととしました。

1年後
世の中は、すっかり変わっていました。
プログラマーの大量解雇が相次いで行われ
私にスカウトをくださっていた企業からも「枠が埋まりました」
という連絡が相次いで届くようになりました。

このままでは就職できないのではないか…
危機感を感じながら職場を後にしました。

実際に、本格的に転職活動を始めてみると、はやりいろいろと難しいことが多いことが分かってきました。

内定をいただいても、職場の近くに転居することが条件だったり、リモートではなく現場でのお仕事だったり。

新しい職場で、有休をつかって両親との時間を作ることなんて無理。
ならば、どうする?

そんな時に、退職後は個人事業主として働いていた伯父の姿が脳裏に浮かんだんです。

個人事業主という働き方をしよう、という結論に達したその時に
甥っ子が持病で倒れました。

受けもった生徒がてんかんを理由に就職できなかったことがあったことを思い出して、震えました。
この子は、普通の就職はできないのかもしれない。
でも自分自身も稼ぎがなくて、手助けもできない状態です。

貯金を切り崩しながら生活を始めて、もうすぐ1年。どうする。

そんなときに、Webマーケティングに出会いました。

それまでサブリミナル効果や、大会の商品として企業からのタイヤが供給されることなどで、なんとなく知っていたマーケティングのWeb版です。

Webマーケティングを身につけたなら、自宅で仕事をしながら、両親と過ごすことができる。
甥っ子が希望すれば、いつかいっしょに仕事をすればいい。

とっさに、昔いつも母が言っていた言葉
「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。」
が浮かびました。

 

どうなるか分からないけど、挑戦してみよう…そう思ったんです。

さいごに

これまでの人生で、何度も学ぶ機会があったマーケティングですが、なんとなく避け続けてきました。

けれど後回しにした宿題は、どこかで終わらせる必要があります。
わたしの場合はWebマーケティングを学ぶ、という方法で私の人生の宿題を片づけることになりました。

もっと早く始めていれば、若いうちに準備することができていれば、両親の介護が目のまえの現実となる前に、準備しておくことができたでしょう。

けれど、わたしの人生では今日のわたしが一番若いんです。
私は、わたしの人生の中で一番若い今日のじぶんに未来を預けることにしました。

これからの1年間で、成果を出してご報告してまいります。

ときどき、こなゆきはどうなったかな、と、このブログを覗きに来ていただけたら幸いです。

 

こなゆきがWebマーケターを目指すきっかけになったのは、あるスクールとの出会いです

こなゆきは「リモラボ」に入っていますが、先輩たちから助言をいただいたり、バーチャルオフィスで一緒に働いたりして、とてもいい環境に恵まれています

皆さんも、いい環境に巡り合えますように

リモラボの実績者の体験談を知りたい、というお声をいただいたので、
リンク貼りました

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ABOUT ME
KONAYUKI
50代からWebマーケティングに取り組む元教員 親の介護が見えてきて、やむなく退職 不器用な上にノースキルだけど、奮闘中 好きなコト:旅&あたらしいこと